ずっと待っていた、シルクが出来ました。

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江戸の鼠色

平安時代に喪服に用いられていた鈍色や青鈍は、江戸時代になると

灰色や鼠色と呼ばれるようになり、喪のイメージも刷新されました。

更に、火事を嫌った江戸の人々は、灰色よりも鼠色の呼び名を好んだため、

灰色がかったくすんだ色にも鼠色の名が付けられました。

 

例えば、茶鼠、藍鼠、青鼠、紺鼠といった茶色や青色を帯びた鼠色や、

銀色を帯びた明るい鼠色には銀鼠、錫色(すずいろ)。

また、千利休の名を借りた利休鼠、川の色から深川鼠と呼ばれるようになった

緑みのある鼠色、灰色がかった桜色の桜鼠、紅梅の花のような赤みを帯びた梅鼠、

鳩の羽根のようなくすんだ青紫色を鳩羽鼠など、人名や自然の色合いから

様々な鼠色が見出されました。

 

微妙な色合いと「百鼠」とも言われるほどの多様な色名。

そこに、女性は着物の裏地に鮮やかな紅色を使用したり、

男性も羽織の裏に描絵を施すなどの工夫を凝らして、

お洒落を楽しんでいたようです。

江戸の人々の豊かな感性がうかがえます。

侘び茶

 

室町時代には、貴族や武士の間で、中国渡来の豪華な茶道具を

台子に飾った茶の湯の式である「書院茶」が広まりましたが、中期以降、

能阿弥から書院茶の指導を受けた村田珠光が、当時庶民の間で流行していた

「下々の茶」の様式を取り入れるとともに、一体宗純に学んだ禅の精神を加えて、

新しい茶会を考案しました。

 

それが、連歌などに代表される日本的な不足の美と心の静寂を求める「侘(わ)び茶」です。

 

 

「月も雲間のなきは嫌にて候」

満月の皓々(こうこう)と輝く月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が美しい

 

この文章にも表れているように、村田珠光は不完全な美を尊ぶ精神を

侘び茶の中で主張したのです。

 

その後、侘び茶の方式は、堺の武野紹鴎(たけの しょうおう)を経て、

千利休によって完成されることになりますが、千利休は木、土、石、わら、竹などの

自然素材を大切にし、自然界の色合いになじませつつ茶会の道具や

懐石、茶室の部分に工夫を凝らしました。

 

そのため色彩も、色みや清色の少ない簡素な色彩美で、茶系や緑系を

中心にした渋みのある中間色が多用されることとなりました。

辻が花染

 

織田信長から豊臣秀吉を経て徳川家康に至る安土桃山時代は、

わずか三十年の期間でしたが、都市を中心とする町人文化が勢いを増すと同時に、

明の織法や南蛮貿易などの影響もあり、豪壮で華麗な文化が花開きました。

 

服飾の分野においても華美化が進み、刺繍に金・銀の箔を併用した豪華な繍箔や、

摺箔と刺繍、絞りなどの多彩な表現技術による染織品が生まれました。

 

絞り染めを基本に模様や刺繍を施した豪華な染色技法である「辻が花染」も、

この時代に確立され、安土桃山時代の豪華絢爛たる文化を演出しました。

当時は染物といえば辻ヶ花を指すほどに一般的な染織作品であったといわれています。

 

この時代の庶民の服装は、動くのに都合のよい小袖が代表的で、

対丈の長着に細帯、腰に三幅前垂れのような布を巻いて日常着としていましたが、

色彩的な華やかさが目立ちました。また、武士の胴服にも大胆な文様が取り入れられ、

能装束も更に豪華になっていきました。

 

まるで戦乱で抑圧されていた感性が一度に芽吹いたような、

明るく積極的な時代の空気が感じられます。

勝ち色

 

応仁の乱以降、政治の中心は京都から鎌倉へ、文化を作り出す中心も

貴族から武士へと移り変わります。戦続きの乱世であったことから、

この時代に誕生した色名は16色という少なさであったと言われています。

武士たちが合戦に赴く際に身につける甲冑には、黒に近い藍色である

褐色(かちいろ)が好んで用いられました。「かち」という音が、「勝ち」に

つながることから、「勝ち色」として縁起が良いとされたようです。

 

また、軍団編成における色揃えとして、全身を赤で統一する「赤備え」は、

有力大名の精鋭部隊に与えられることが多く、強さを表す色として重宝されました。

事実、武田信玄の「赤・金・白」の配色は、「武田の赤備え」と呼ばれ名を馳せました。

武田家の元家臣であった真田幸村の配色も、「強さの赤」に「勝ち色」の青という

大胆な組み合わせでした。

 

その他、戦国大名たちが着用した陣羽織にも原色や異色の対比が多く、

平安貴族とは異なる色彩感覚が育まれたことがうかがえます。

内服と外服

 

「服」という漢字の語源と言われている記述があるのは、

中国の春秋戦国時代に編纂された『山海経(せんがいきょう)』という名の

地理書で、そこには、植物や鉱物の薬効が記載されています。

 

この書物の中では、薬草などを「衣服」のように体にまとい病気の原因となる

邪気の侵入を防ぐことを「外服」、薬を体内で効かせて邪気を防ぐことを「内服」

と言い表されています。

 

つまり、薬を飲むのが「内服」、身体にまとって皮膚から直接薬効を得るのが

「外服」と捉えられているのです。

 

衣服に機能性やデザイン性が重要であることはもちろんですが、そこに

心と身体を整える役目があるという新たな視点を持つと、

毎日身にまとう衣服に対する愛着が一層深まりそうです。

飲食衣服 これ大薬

 

草根木皮 これ小薬

鍼灸 これ中薬

飲食衣服 これ大薬

身を修め心を治める これ薬源

-書経-


中国の古い経典である書経には、漢方薬である草根木皮や鍼灸よりも

ふだんの食事や衣服が身体に大事であるという意味の言葉が残されています。

衣服は食べ物と同様に身体と心に作用するもの、

つまり、身体が喜ぶ衣類を身にまとうことは、

身体によい食事をするのと同様に大切なことであると述べられています。


薬を摂取する方法は、日本語では主に「内服」と「外服」に分けられ、

内服は主に経口摂取、外服は主に皮膚からの摂取を指します。

そして、「書経」の中で大薬として扱われている衣服は、皮膚から直接薬効を得る、

外服という方法で摂取される薬として広く活用されてきました。

 

薬を口から摂る時間は短いですが、衣服は一日中身につけるもの。

染織文化の根底には、衣服を薬として捉える考え方があったのです。

3つの かさね色目

 

平安時代の貴族は、衿や袖口にあらわれる配色や仄かに透けて見える裏地の色など、

絹織物を重ねて着用することによって生まれる視覚効果を楽しみ競い合いましたが、

その煌びやかな世界を支えていたのは、当時の織染め技術でした。

 

例えば、織物を制作する過程においては、経糸と緯糸に違う色を使うことで

複雑な色合いを作り出すなどの工夫がなされ、また、染めの過程においても、

同じ紫色でも紫苑、藤袴、桔梗…と美しい名前の紫が何十色も染め上げられていたのです。

 

つまり平安時代には、表裏のかさね色目(合わせ色目)、

重ね着のかさね色目(襲色目)という「布」「衣」のかさね色に加え、

染色と織色の技巧によるかさね色目によって、四季の彩りを衣装の色目に

表現していたということになります。


平安装束の色彩は、人々の美意識と丁寧な手仕事の賜物なのです。

平安書物に見る紫

 

紫色は平安時代の貴族たちの間でも好まれたようで、この時代を代表する書物にも

多くの用例が描かれています。

 

古今和歌集

紫のひともとゆへに むさし野の 草はみながらあはれとぞみる(詠み人不明)

 

これは愛する人を紫草に例えて詠まれた歌で、愛しい一人の人を想えば、

その人に関わる全ての人達も愛おしく思えるという意味になります。

また、紫の根を和紙に包んでおくと和紙に色が移るので、自分の色を想う人に

移して染めたいという思いもあったとされます。

愛する人を一本の紫草に例える感性の豊かさや、紫色に込めた想いの大きさに、

畏敬の念すら覚えます。

 

源氏物語

作者 紫式部の名に紫が入っているのはもちろん、紫の上や藤壺など、

主要な登場人物に紫を連想させる名前がついていることから、「紫の物語」と

呼ばれる事もあります。

文章中でも、例えば光源氏が紫の上に葡萄染の小袿を与えている場面など、

色についての描写が大変細かく、光源氏を軸とした登場人物の関係性が

色で表現されていることに新鮮な驚きがあります。

 

枕草子

清少納言による「枕草子」にも紫が多く登場します。

 

春はあけぼの。

やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

訳:春は曙がいい。次第に白んでいくと、山際の空が少し明るくなって、

紫がかった雲が細くたなびいているのがいい。

 

大納言殿の参りたまへるなりけり。御直衣(なほし)、指貫(さしぬき)の紫の色、

雪にはえていみじうをかし。(第百八十四段:宮に初めて参りたるころから抜粋)

訳: しかし、それは関白殿ではなく大納言殿(藤原伊周)が参上されたのだった。

着ていらっしゃる御直衣や指貫の紫の色が、白い雪に映えてとても美しい。


この他にも、「花も糸も紙もすべて、なにもなにも、むらさきなるものはめでたくこそあれ。」と

紫のものは全て美しいとさえ表現しています。

 

平安貴族たちにとって紫は、色以上に大切な存在だったようです。

冠位十二階における紫

 

推古天皇の摂政であった聖徳太子によって603年に制定されたとされている

冠位十二階(かんいじゅうにかい)と呼ばれる日本最初の冠位制度においては、

朝廷に仕える官吏や貴族たちの位が大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・

大信・小信・大義・小義・大智・小智という十二の階級へと区分けされたうえで、

それぞれの階級に対応する十二の色が割り振られ、各自が宮中に参内する時に

身に付ける冠の色の違いによって、冠位の違いのあり方が明示されていくことになります。

 

具体的にどの位が何色を用いていたのかが記録として残っていないため、

はっきりとしたことは分かっていませんが、中国の思想である儒教の五常がもとに

なっていることから、「五行五色説」が有力になっています。

五行とは万物の元素である木・火・土・金・水を指し、それぞれが五常である

仁・礼・信・義・智に対応しているという考えで、それぞれに色が割り振られています。

いずれも古代中国の思想から生まれた考え方で、これに従うと色は次のとおりです。

 

仁:木=青
礼:火=赤
信:土=黄
義:金=白
智:水=黒

 

最高位の徳は上記にあてはまりませんが、蘇我蝦夷(そがのえみし)や蘇我入鹿などが

紫冠を用いていたとの記録から、紫である説が有力です。紫色を高貴な色として

重視する傾向は、陰陽思想や儒教思想のうちにではなく、古代中国における

民間信仰や不老長寿を求める神仙思想を基盤として、そこに、陰陽思想や、

老子や荘子といった道家思想、さらに、後代においては、仏教思想なども

取り入れられることによって成立していった宗教思想である道教思想のうちに

見られる傾向であると考えられています。

 

道教思想においては、人間社会における様々な事象の変化を説明するための

道筋として、宇宙における天体の運行のあり方が重視されていくことになるのですが、

例えば、地上から見ると自らはほとんど動かず、他のすべての星々がその周りを

回転しているように見える北極星が神格化されて、北極紫微大帝(ほっきょくしびたいてい)と

呼ばれる至高神の一柱として位置づけられていくことになります。

道教における至高神の名前に紫という字が用いられていたことは、

紫色を最上位の色として位置づけるという冠位十二階における色の選定のあり方と

同様の傾向を見いだすことができると考えられます。

日本の原点色

 

最も古い日本の原点色は「アカ、クロ、シロ、アヲ」の4色です。

古代日本人には色の表現が無く、その代わりに明暗顕漠(めいあんけんばく)を

原義とする光の感覚で色彩を表現したようです。

明=赤、暗=黒、顕=白、漠=青で、例えば、赤の他人とは明らかな他人という意味、

又、腹黒い人とは心根が暗いという意味になります。白は太陽光線を表すようで、

はっきりとした色のことで即ち顕、青は白の反対でぼやけている色で灰色のことを言いました。

青春とは若い人を指して表しますが、本来はぼやけた人という意味で、

成熟していない若い人の意味になるのだそうです。

 

この4色は、色名の後ろに直接「い」を付けて、「赤い、黒い、白い、青い」と

自然な表現になり、また、「赤」と「白」(紅白、赤白帽子など)、

「赤」と「青」(赤鬼、青鬼など)、「黒」と「白」(囲碁など、

悪いことをしたときに「シロ・クロ」とも言います)など反対の色を持つ言葉も、

この4つの色名以外に日本語では存在しません。

更に、「赤々と」「青々と」「白々(しらじら)と」「黒々と」いった色名を重ねた副詞も、

この4つの色以外存在しません。

 

日本の原点色は、長い歴史の中で、単純に色を表すだけではなく

様々な使い方がなされていたのです。