ずっと待っていた、シルクが出来ました。

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辻が花染

 

織田信長から豊臣秀吉を経て徳川家康に至る安土桃山時代は、

わずか三十年の期間でしたが、都市を中心とする町人文化が勢いを増すと同時に、

明の織法や南蛮貿易などの影響もあり、豪壮で華麗な文化が花開きました。

 

服飾の分野においても華美化が進み、刺繍に金・銀の箔を併用した豪華な繍箔や、

摺箔と刺繍、絞りなどの多彩な表現技術による染織品が生まれました。

 

絞り染めを基本に模様や刺繍を施した豪華な染色技法である「辻が花染」も、

この時代に確立され、安土桃山時代の豪華絢爛たる文化を演出しました。

当時は染物といえば辻ヶ花を指すほどに一般的な染織作品であったといわれています。

 

この時代の庶民の服装は、動くのに都合のよい小袖が代表的で、

対丈の長着に細帯、腰に三幅前垂れのような布を巻いて日常着としていましたが、

色彩的な華やかさが目立ちました。また、武士の胴服にも大胆な文様が取り入れられ、

能装束も更に豪華になっていきました。

 

まるで戦乱で抑圧されていた感性が一度に芽吹いたような、

明るく積極的な時代の空気が感じられます。

勝ち色

 

応仁の乱以降、政治の中心は京都から鎌倉へ、文化を作り出す中心も

貴族から武士へと移り変わります。戦続きの乱世であったことから、

この時代に誕生した色名は16色という少なさであったと言われています。

武士たちが合戦に赴く際に身につける甲冑には、黒に近い藍色である

褐色(かちいろ)が好んで用いられました。「かち」という音が、「勝ち」に

つながることから、「勝ち色」として縁起が良いとされたようです。

 

また、軍団編成における色揃えとして、全身を赤で統一する「赤備え」は、

有力大名の精鋭部隊に与えられることが多く、強さを表す色として重宝されました。

事実、武田信玄の「赤・金・白」の配色は、「武田の赤備え」と呼ばれ名を馳せました。

武田家の元家臣であった真田幸村の配色も、「強さの赤」に「勝ち色」の青という

大胆な組み合わせでした。

 

その他、戦国大名たちが着用した陣羽織にも原色や異色の対比が多く、

平安貴族とは異なる色彩感覚が育まれたことがうかがえます。

内服と外服

 

「服」という漢字の語源と言われている記述があるのは、

中国の春秋戦国時代に編纂された『山海経(せんがいきょう)』という名の

地理書で、そこには、植物や鉱物の薬効が記載されています。

 

この書物の中では、薬草などを「衣服」のように体にまとい病気の原因となる

邪気の侵入を防ぐことを「外服」、薬を体内で効かせて邪気を防ぐことを「内服」

と言い表されています。

 

つまり、薬を飲むのが「内服」、身体にまとって皮膚から直接薬効を得るのが

「外服」と捉えられているのです。

 

衣服に機能性やデザイン性が重要であることはもちろんですが、そこに

心と身体を整える役目があるという新たな視点を持つと、

毎日身にまとう衣服に対する愛着が一層深まりそうです。

飲食衣服、これ大薬

 

草根木皮、これ小薬。

鍼灸、これ中薬。

飲食衣服、これ大薬

身を修め心を治める、これ薬源なり。

-書経-


中国の古い経典である書経には、「草根木皮(漢方薬)や鍼灸よりも

ふだんの食事や衣服が身体に大事である」という意味の言葉が残されています。

衣服は食べ物と同様に身体と心に作用するもの、

つまり、身体が喜ぶ衣類を身にまとうことは、

身体によい食事をするのと同様に大切なことであると述べられているのです。


薬を摂取する方法は、日本語では主に「内服」と「外服」に分けられ、

内服は主に経口摂取、外服は主に皮膚からの摂取を指します。

そして、「書経」の中で大薬として扱われている衣服は、皮膚から直接薬効を得る、

外服という方法で摂取される薬として広く活用されてきました。

 

薬を口から摂る時間は短いですが、衣服は一日中身につけるもの。

染織文化の根底には、衣服を薬として捉える考え方があったのです。